A Retrospective Journey Back to Hiroshima: A Requiem for my Father

-キエサ神父による拙著「ヒロシマ遡上の旅」の英訳本の出版‐

川越厚(5期)

 

今から4年前の8月6日、僕は東京の墨田区から山梨県の北杜市へ移住しました。移住の目的は終活のためで、その中で最も大きな課題は原爆でした。その終活作業は昨年12月、本の泉社から「ヒロシマ遡上の旅ー父に捧げるレクイエムー」という本を上梓することによって一応の終了をみました。出版業が不況の中、この本が売れるかどうか心配でしたが、さいわい新聞やラジオ番組などで広く取り上げてもらい、本の泉社に迷惑をかけることがなかったようで安堵しています。

 

「ヒロシマ遡上の旅」が本の泉社から発売されて半年後の本年7月、同じ出版社から英訳本を上梓することができました。翻訳者はイエズス会のR.キエサ神父で、彼は今から60年以上前に広島学院で英語の教師として教鞭を執ったことがあり、その頃学院に在籍していた同窓生にとっては懐かしい方です。また今の在校生にとっては、昨年の12月3日の学院創立記念日に「広島学院の創立精神と創立エピソード」というタイトルで講演なさっているので、身近な神父さんでしょう。僕の記憶にあるキエサ神父は20代半ばの青年神学生で、僕にとっては「神父」よりも「先生」と言う名称がしっくりくるので「キエサ先生」と呼ばせていただきます。

英訳本の話をする前に、そのきっかけとなったキエサ先生と僕との接点から話を始めたいと思います。

 

「ヒロシマ遡上の旅」の本文中で触れたことですが、生前、父は「目のくらむようなまばゆい光を浴びた直後、『神秘的な無音の時』を経験した」と語っていました。『無音の時』という言葉を耳にした僕は、学院時代の「瞑黙」のことを瞬時に思い出しました。被爆時の神秘的な無音の時と、学院時代の瞑黙の時がどうも関係がありそうだと思ったからです。

 

僕たち5期生は厳しい校則の中で、窮屈な学校生活を強いられました。いまも行っているかどうか知りませんが、当時、僕たちは授業前の私語をやめて沈黙すること、いわゆる瞑黙が義務付けられていました。僕にはどうしてもこの「瞑黙」の意味がわからず、意味のない校則に縛られるのが嫌だった僕は、ささやかな抵抗を試みました。薄目を開けながら「みんな真面目に目をつぶっているのかな」と思いながら、そっと周囲を見回していたのです。

 

僕は父が経験した無音の時の意味を深く掘り下げたかったので、中高時代の瞑黙にどんな意味があるのかを高祖敏明さん(4期)に質問しました。この疑問に対して詳しい説明をしてくださったのが、高祖さんが紹介してくれたキエサ先生でした。授業前の沈黙、すなわち瞑黙は、イエズス会の学校で伝統的に行われていた祈りが姿を変えたもの。先生はそのように教えてくださいました。詳細は拙著に詳しく記しているので省略しますが、興味のある方は読んでください。

かような次第で、あこがれのキエサ先生とまた旧交を温めることができるようになったのですが、英訳本の話をする前にキエサ先生がどんな方だったのか、少し説明をしたいと思います。

僕たち5期生は、英語を主にT. ハンド先生に教わりました。カリフォルニア出身のハンド先生は細身で少し繊細なところがあったように記憶していますが、非常に穏やかな優しい先生でした。発音練習は徹底していて厳しく、僕たちはみな苦労したのですが、おかげで大学を卒業して社会に出てから、その英語力が大変役に立ちました。当時は主にアメリカ出身の神父さんが多数いらしたので、僕たちは英語教育に関して大変恵まれた環境の中にいました。現在はその神父さんが少ないと伺っており、学院ブランドの英語教育は大丈夫かな、と心配しています。

 

キエサ先生は確か僕たちが中3の頃、学院に赴任されたのではないかと記憶していますが、僕たち5期生は高1の時、「選択授業」で選択した生徒のみが先生から直接英語を習いました(数名の生徒の名前を正確に憶えていらっしゃいました!)。失礼な表現になりますが、先生はスマートでハンサム、ハンド先生と同様の格調高く聞きやすい英語を話していらっしゃいました。僕はそんなキエサ先生を憧れの目で眺めていました。先生は高音部が澄んで通る、非常に美しい声の持ち主で、この点もハンド先生と同じでした。講堂で行われた何かのミサの中で、ハンド先生と一緒に非常に綺麗なカウンターテナーの声でグレゴリアン・チャントを歌われたことが特に心に残っています。

 

高1の時長崎で英語の弁論大会があり、一年先輩の山邊直基さん(4期)とともに長崎へ行く機会がありました。長崎に到着した翌日の1963年11月23日、耳を疑うニュースが舞い込んできました。米国の第35代大統領のジョン・F・ケネディが、テキサス州ダラス市内で狙撃されて死亡したというのです。カトリック信者で初めて大統領になったケネディは、その前年の1962年(昭和37年)10月から12月にかけて世界が核戦争の瀬戸際まで追い込まれたキューバ危機の時、陣頭指揮をとって危機を凌いだ英雄ですが、まだ40代半ばの若い大統領でした。

 

60年以上前の話で記憶が曖昧なことをお許し願いたいのですが、僕の手元には三浦環の像の前で撮ったキエサ先生の写真があり、その写真から判断するとニュースが入るまでは三人で長崎市内をのんびり散歩していたと思います。ところがケネディ暗殺のニュースが飛び込むと、キエサ先生は大変衝撃を受けられ、その後どのようなコースを辿ったか全く記憶にないのですが、市内を3人は夜が更けるまで歩き回りました。若くして未亡人となったジャクリーヌ夫人のことをひどく心配していらしたのが、僕には特に印象的でした。

 

本論に戻りますが、「ヒロシマ遡上の旅」は一言でいえば「プライベートな被爆物語」です。生存被爆者として戦後を生き抜いた父の苦しみを理解できなかった僕の懺悔録であり、同時に父に捧げる鎮魂歌です。原爆に関する手記や記録は膨大で、今更このような本を上梓することにどれだけの意味があるのか、僕自身よくわかりませんでした。たとえば川本隆史さん(9期、東大・東北大名誉教授)の手によって「ひろひと天皇年代記(2025、琥珀書房)」(オリジナルは『原爆と一兵士(1980、旺史社)』)が復刻されたのですが、この本の方がはるかに史実を忠実に表現しており、歴史的な価値があります。ぜひ一読をお勧めします。

 

それはさておき、プライベートな被爆物語が英訳書という形になったのは、キエサ先生のおかげです。英訳本出版の話が版元の「本の泉社」から出た時、どなたに翻訳してもらうのがよいだろうかと考えていました。まさにそのとき、高祖敏明さんを通してキエサ先生の耳にその話が届き、「わたしがやります」ということになったのです。表題は拙著の英訳ですが、このタイトルは素晴らしい、と訳者のキエサ先生からお褒めの言葉をいただきました。尊敬するキエサ先生にこのような作業をしていただき、予想をはるかに超えた終活ができた自分は、なんと幸せな人間でしょうか。喜びを同窓の皆様に報告する次第です。

 

感謝の気持ちを込めて9月末日、浅草の天ぷら屋で英訳本完成のささやかな集いを持ちました。高祖さんとキエサ先生のお2人がそれぞれ僕の著書原本と翻訳本を手にしてくださっています。ちなみにここに写っている他の方は、僕の秘書を25年以上やってくれている女性(2列目左)、それから本の泉社の社長と翻訳の編集を担当してくれた女性です。

 

楽しい語らいの時を持つことができたのはこの本のおかげですが、我々広島人にとって原爆は非常に重いテーマです。それでも、是非皆様にこの本を読んでいただきたいと願っています。英訳が原本以上によくできているのは間違いなく、英語力の衰えを感じる方がいらしたらぜひ二冊の本を並べて読み比べてください。高祖さんに、「上智大学の入学試験にぜひこの英訳書から出題してください」とお願いしたのですが、笑っていらしたのでこの提案は実現性がないようです。冗談はさておき、この場を借りてキエサ先生、高祖さん、川本さんには改めて感謝の意を表します。